ここでは、思考と存在の同一性を他の哲学者の視点もまじえ考えてみる
思考と存在の同一性とは、思考と存在が一致しているという哲学的命題である
思考(精神)存在(現実や物質)
思考と存在の同一性という概念は、根本的に分離ができないもので、同じ実体の異なる表れとして理解される
哲学者によって解釈は違うが、中心にあるのは、思考と存在が一つの現実を異なる視点から見たものであるという考えである
スピノザの視点 思考と存在の同一性は心身平行論と関連している
(心身平行論はライプニッツがその考え方を指すために命名した)
神や自然が唯一の実体であり、その属性に思惟と延長があり、これらは根本的に一つのもので異なる側面を持つだけで、思考も存在も同じ実態の表現である
スピノザの思考と存在の同一性は、コインの裏表のような関係として捉えられる
ヘーゲルの視点 思考と存在の同一性とは絶対精神という概念を通して、世界の全ての存在と人間の思考が最終的に一致すると考えた、思考が発展していく中で存在そのものも同時に発展していき、最終的には思考と存在が統合されるというのである
ヘーゲルの思考と存在の同一性は、弁証法を用いて展開されるプロセスである
マルクスの視点 物質的な存在(労働や経済活動)が思考(意識)を規定するとした、現実(物質的条件)がまずあって、それが人間の思考を影響を与えるのである
彼の唯物史観では、人間の思考は物質的な生活条件や生産活動によって規定されるとした、これにより、思考と存在の関係は、物質的存在が思考を規定するという一方的な関係なのである
マルクスの思考と存在の同一性は、職業や労働が人間そのものを形成する重要な要素ということだ
カントは思考がそのまま存在を表すとは考えず、物自体と現象の二つのレベルを区別することで、思考と存在の同一性を解体した
カントの視点 思考と存在を同一視することは誤りで、思考はあくまでも人間の認識能力に基づいたものであり、存在はそれとは別の問題と捉えた
カントは『純粋理性批判』においても、私たちの認識は現実世界に対して必ずしもそのまま対応するわけではなく、私たちの思考が把握するのは現象の世界であり、物自体(存在の本質)は認識できないと考えた